(プロフィール概略)
秘書代行、電話代行、事務局代行の㈱シー・エヌ・シー 代表取締役
1964年東京都町田市生まれ。米軍基地に近い環境で育ったため英語力が身につき、高校生でTOEIC720点。青山学院大学経済学部に進学し、外国人ゼミで経済英語を学び外資系への就職を希望。AFLACへ入社し希望の資産運用部門へ。4年目には社内初のMBA取得、その後もビックプロジェクトに係わり順調に昇進。
その後ヘッドハンティングでS&P社、ミレア・モンディアル社を経て、2011年12月独立起業、㈱シー・エヌ・シーを設立。低価格で最高品質の中小企業向けの電話代行サービスを開始。事務局代行案件も具体化して右肩上がりで業績躍進中。
●幼少~会社時代ー
米軍基地に近い環境で育ち、英語力が自然に身についた。
AFLACでは3年間の米国出向、MBAを取得のチャンスに。
1964年東京都町田市に生まれる。その後は緑台小学校、相武台中学、相武台高校・・・、現在も相模原在住です。相模原はベットタウンで、小学校4年で新設校開校、中学も新設第1期生で、面倒な先輩がいない快適な環境でした(笑。中学では、全て一から創る環境で、例えば校歌を「シクラメンのかほり」で有名なあの小椋桂氏に依頼して、そのテープで生歌を聞き皆で感動したことは今でも印象に残っています。スポーツは小学生で柔道と少年野球、中学・高校はテニス部に所属していました。
相模原は米軍基地が近くにあり、アメリカ人との接点が多い街で、小さい頃から英語が身近な環境にあり、英語が得意になっていました。高校2年でTOEIC720点を取り、大学進学の際には、真剣にアメリカの大学への留学を考えたほどです。
結局、海外留学は将来の夢として、厚木校舎のある青山学院大学経済学部へ進学。キャンパスはとても楽しく厚木での2年間はテニスサークル活動に熱中し、ほとんど遊んでおりました(汗。しかし青山に移ってイギリス人教授の「世界経済論」ゼミを選択して生活が一変しました。講義も卒論も全て英語というのは学内唯一で、私以外はほとんどがESSか帰国子女ばかり、私の英語は徹底的に鍛えられました。
3年頃から就職活動を開始、「将来は海外勤務へ」「MBAも取得したい」ため狙いは外資系でした。AFLAC(アメリカン生命保険会社)人事の方から、希望する資産運用部門への配属で早い段階で内定を頂いたので、就活は早々に終了。当時は安易に数年後に会社を辞めてMBA留学を考えていたので、就職はワンステップと考えていました。
内定の約束通り財務部の資産管理業務に配属、1年毎に業務が変わり、2年目は計数管理業務、3年目は運用業務(ファンドマネージャー)を経験、そして4年目に大きなラッキーチャンスが巡ってきました。米国の提携銀行(アトランタ)との関係強化のために、私が3年間出向(兼MBA留学)を任命されたのです。最初の1年は銀行でフルタイム勤務、2~3年目はビジネススクール(Emory University, Goizueta Business School)に通い(MBA取得では、アフラック企業派遣第1号として選出された!!)、余った時間や休み期間は銀行にてパートタイムで働くことに。MBAホルダーで現地勤務と同時に留学経験する人は、珍しいと思います、良い経験をさせて頂きました。
また、出向時の上司(現地採用からキャリアアップした日本人)の方が、公私ともに素晴らしい方で、今でも交流があり私のリスペクトNo1になっています。
●転職(ヘッドハンティング)ー
40歳、S&P社の部門統括ディレクターにヘッドハンティング。
45歳、ミレア・モンディアル社の実質No2にスカウト!!
帰国後も資産運用部門に属しながら、審査グループの立ち上げ、国内及び海外の多種多様な企業のフィージビリティ・スタディ(FS)と投資、企業全般のリスク管理態勢構築、プロジェクトリーダーとしてAFLAC日本社中期経営計画案の策定、日本における確定拠出年金制度導入に係るFS、米国SOX対応の導入プロジェクト…などに参画、ダイナミックかつ繊細な業務も経験しました。87年入社時から会社は急成長し、'05年退社時には資産運用規模は4兆円を超える規模になっていました。
米国から帰国後、ヘッドハンティング会社から色々なお誘い機会が多くなりました。魅力ある仕事、快適な環境でしたのでずっとスルーしていましたが、'04年アフラックのリスク管理業務に携わり残りの人生を考えた時、一社だけではなく他の企業でも自分を試してみたいと強く思うようになり、'04年に転職を決意することに…。
‘05年S&P社(スタンダード・アンド・プアーズ社)へ転職。アジア事業開発ヘッドを経て、日本/韓国の信用市場情報サービス部門(セキュリティーズ・サービス)統括ディレクターとして、営業・クライアントサポート・マーケティングをリードし、’06年に同部門の統括ヘッドに就任しました。
米国寡占企業という独特の社風で、石橋を叩いても渡らない場合もあり、組織環境に慣れるのに苦労しました。
●起業のキッカケ、そして起業の決断ー
47歳で雇われの身から独立起業を選択。
信頼できる女性との出会いが、起業を後押しした!!
今回は47歳、ビジネス人生65歳とすると20年のカウントダウンが始まっている年齢でもあり、独立起業するための気力・体力を維持できる年齢的限界も感じていました。この時もヘッドハンティング会社からのお話もありましたが、雇われて仕事をするより、起業して自らが社長となる方が良いと判断しました。
起業テーマは中小企業向けのBPO(Bussiness Process
Outsoursing)サービス。前職のBPOビシネスはワールドワイドなビッグクライアントばかりが対象でしたが、個々のサービスの内容は中小企業での需要も充分見込めるものでした。運が良かったのは、信頼のおける女性(秘書経験、管理能力抜群)の協力を得られたことです。常々40代以上の有能な女性がキャリアアップできずに企業に埋もれており、私の事業で発掘して雇用環境を生み出すことも想定しておりましたので、起業決断の大きな要因になりました。現在も彼女にはコールセンター責任者として現場を指揮して頂いています。
2011年11月に前職を辞め、12月新会社を設立登記しました。「信頼(Credence)」「絆(Network)」「コミュニケーション(Communications)」を大切する会社を目指して、社名は頭文字をとって㈱シー・エヌ・シーとしました。主業務は、秘書代行、電話代行、業務アウトソーシング(コンサルティング)で、「低価格・最高品質」の秘書代行・電話代行のサービスを目玉に据えました。
●起業後のエピソードー
苦労もありますが、起業の楽しさを日々実感中。
お客様の満足の声がクチコミや紹介に繋がった!!
雇われの身から転じて小さいながらも起業したことで、ヤリガイや充実感が生まれました。まず意志決定が迅速にでき試行錯誤が可能なこと、そしてサラリーマン時代とは異なる新しい人脈形成が構築できたこと、何よりも全て自分の責任で行えることがエキサイティングだったのです。
ただどの事業もそうかも知れませんが、事業は計画通りには中々いかないこともあります。2012年早々に事業スタートの予定でしたが、タイの洪水の影響で、コールセンター機器の納品が大幅に遅れ、結局4月スタートとなってしまったり…、零細企業での人材採用が非常に難しいことを痛感したり…など、確かに苦労したこともありましたが、辛いと思ったことは一度もありませんでした。
営業成果は、お客様の紹介やクチコミというカタチで徐々に現れてきました。最高品質の秘書代行・電話代行を追求するために、現場のホスピタリティマインドを徹底的に改善したことで、お客様からの評価の声を頂けるようになりました。お客様ごとに対応マニュアルはありますが、おもてなしの精神で業務改善をし続けた現場スタッフの姿勢がお客様にご理解頂けたのだと思います。
●今後の夢・目標・生き方についてー
「事務局運営代行」業務へ拡がりを。
女性がイキイキ活躍できる雇用機会を創出したい!!
起業後、まもなく2年を迎え、次の展開フェイズに入る時期にきています。「電話秘書/電話代行」業務については、顧客も増えてきて一定の評価を頂けるようになりました。そして電話代行業務で築いた信用から「事務局運営代行」という大きな仕事に発展し、業務の幅も拡がりつつあります。今後は、コンサルティング業務など個別企業の経営相談やサポート機能の拡充に注力して参ります。
「事務局運営代行」の案件拡大は、多くの女性スタッフの雇用機会を創出します。事業目的のひとつに掲げた「40代以上の有能な女性がイキイキと活躍できる職場を生み出すこと」で、社会に貢献したいと願っています。
☆商談中・運転中に大切な電話を取り逃がしている☆代表電話をプロに受けて欲しい☆業務中の電話対応に追われ、業務が中断しがちなため本来業務に集中できない☆人件費を削減したい☆独立・起業したばかりで電話応対をお願いしたい…このようなニーズに対応する「電話秘書(月12,000円~)」「電話代行(月20,000円~)」サービスをご提供しておりますので、お気軽にご相談頂ければ幸いです。
●安藤敏樹、私の座右の銘
「誠心誠意」 社名の由来とともに基本理念に掲げている
「Challenge(チャレンジ)」 常にアクティブに生きる、経営する
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