地域から日本を変える‼ 九州No.1の地域活性化プロフェッショナル集団‼
1963年熊本県南阿蘇村生まれ。熊本大学卒業後、㈱リクルートに入社。ビル事業部で好成績を挙げるが、リクルート事件で多くの案件が塩漬け状態に。試行錯誤の中で社内新規事業「地域活性事業部」を設立し、九州担当として福岡赴任。その後2006年福岡市でイデアパートナーズ㈱を起業。2007年内閣府の「地域活性化伝導師」に任命され、九州各地の自治体との観光振興や集客施設の立上げなど100以上のプロジェクトを手掛ける。2010年NPOイデア九州・アジアを設立、飲み食べ歩きイベント「バルウォーク福岡」は日本最大級に。直営店舗「情熱の千鳥足カルネ(九州ジビエ料理)」を西中洲一等地にOPEN、など実績多数。
●幼少~大学時代―
田舎育ちの元気な少年が県内進学校の濟々黌高入学、そして熊本大学へ。
人形劇サークル活動を通じて「人を楽しませる喜び(自分軸)」を発見‼
1963年熊本県長陽村(現南阿蘇村)生まれ。長陽村は栃木温泉として昭和40年代とても賑わっていた町で、父が勤めた「小山旅館」も開湯300年の歴史をもつ由緒ある旅館でした。父は17歳の時の丁稚から最後は番頭にまで出世。その後旅館と兼業で1950年に酒屋、’61年にガソリンスタンドを開業、71年に阿蘇大橋やバイパスが開通し観光客が一気に増えたことで、旅館を退職し酒屋とGS経営に専念。店は繁盛し、休みや盆暮れには、兄と一緒に朝から晩まで手伝っていました。そんな父の背中を見ていたので、自然に私の中にも起業のDNAが育まれていったのだと思います。
高校は熊本市内にある濟々黌高校に合格、「質実剛健」の校風がごとく、勉強はもちろんスポーツや音楽でも群を抜く同級生がいて、中学までの自分は井の中の蛙だったと思い知らされました。シンガーソングライターの樋口了一さんもその一人。ツッコミ話術が天才的な人気者・岩見康夫君とは直ぐに親友に。刺激的な仲間ができたことが本当に嬉しく、とても楽しい毎日を過ごしていました。文化祭では当時のTV人気番組「フィーリングカップル5vs5」を企画したり、田原俊彦を真似て、得意のバク転で歌うなど、人を楽しませる喜びを知ったのはこの頃です。また3枚目役が自分にはとても心地よい世界だとの気付きもありました(笑。
大学進学は経営学部を目指していたのですが、志望大学の試験の結果が悪く、全く異色の熊本大学工学部環境建設工学科に入学。果たして自分に向いているのか、という疑問は残りましたが、一浪するよりも早く社会へ出ることを優先しました。
大学では人形劇サークル「青い鳥」に入部。軽い気持ちで参加した人形劇サークルですが、発声練習や体力づくりなど体育会系並みの厳しい練習が待っていました。約60人の仲間は教育学部系の学生が中心で、夏休みは1週間かけて小学校を巡回し、人形劇やキャンプファイヤーで子供たちと交流。大学3年の時には、人形劇の脚本・演出・舞台監督の大役を務め、オリジナル作品「チャチャイム・チャチャイム・ホー」をメンバー全員で1年かけて完成、最後は連日徹夜で制作や練習を重ね大変な思いをしましたが、成果を披露して子供たちから大きな歓声と拍手を貰うと、嬉しくてそれまでの苦労は吹き飛びました。この瞬間、自分のやりたいことが見つかった気がしました。「仲間とワクワクする気持ちを共有し、ゼロから何かをつくり出し、誰かに喜んでもらう」ことをサークル活動を通じて体感し、自分の軸にすることができました。現代版わらしべ長者といった内容のこの作品の主人公サムは、最後に全てを失うが、楽しい思い出と体験を手に入れたことに気付き、また旅に出る。私自身がなりたい自分を、このサムに投影していたのだと思います。
大学4年になり、就職活動へ。1985年頃の日本はバブル期に向かう好景気で最大の売り手市場でした。工学部となれば学校推薦で就活なしで会社が決まる状況でした。しかし、人形劇サークルで人を楽しませる喜びに目覚めた私は、大学に頼らず独自の就職活動をスタートしました。自分にあった職業とは?会社とは?当時はインターネットもなく、どうしたら適職が見つかるのか五里霧中の状態でした。そんな時に出会ったのが「リクルートの奇跡」です。本を開くと「自らの機会を創りだし、機会によって自らを変えよ」という社訓が衝撃的に目に飛び込んできました。江副浩正氏が創業した情報産業のリクル-トは当時急成長中のベンチャー企業、本からは若い社員が自らのアイデアや行動で事業を展開し、活躍する様子が伝わってきました。
●リクルート時代
モーレツ社員全開も、リクルート事件で一転…社内失業状態に。
運よく「地域活性事業部」の創設メンバーで活躍の場を得たが廃部決定に…。
早速、九州支社(福岡市)を訪ね、採用担当者に自らの想いを話すと「おもしろいね、ウチに来ない?」と言ってくれました。そこに来ていた学生は「デカいビジネスがしたい」「将来は独立したい」などと語る強者ばがり。「この会社だ!!」と思いました。しかし建築関係の大企業や行政の仕事に就くと思っていた両親は大反対、休みがなく収入も不安定な自営業を営んでいたので、子供には同じ苦労をさせたくなかったのでしょう。ところが私の方は親の姿を見て、自分もいつかは会社を経営したい!と思うようになり、将来の独立のためにまずリクルートに入って自分を鍛えるのが一番の近道と考えたのです。ゼミの教授からも「君は学んだことを無駄にするのか?」と反対されましたが、最後には「自分の選んだことは人のせいにしない、後悔しない」と両親や教授を説得して、’86年4月リクルートに入社しました。
入社後は、不動産・ビル事業部に配属され、大阪支店勤務となり、大型ビル開発プロエクトを担当。当時はバブル経済の真っ只中で、リクルートも伸び盛り(新卒採用は680名超)。平均年齢26歳、支社内には飲食スペースやプールバーがあり、夜遅くまで仕事をしたし、深夜まで飲みにも出掛けました。報奨旅行で海外にも行きました(写真)。すべてが順風満帆で、怖いことなど何もないと思われていた矢先に、その事件は起きました。日本中を揺るがした「リクルート事件」が発覚したのは、入社3年目のことでした。我が事業部が手掛けた川崎市の再開発事業に絡む贈収賄疑惑を発端に、政官財界を巻き込む大スキャンダルに発展…、事件以来部の仕事はストップしました。出社しても仕事がなく、上司も指示することもできず「社内失業状態」になりました。
しかしリクルートの底力は強い。ある先輩からの「これは時間を有効に使えるチャンスだ、仕事は自分で作ればいいんんだよ」という発想を逆転するアドバイスは、毎日呆然としながら過ごしていた私の眼を覚ましてくれました。それからは積極的に会社を飛び出して、異業種交流会に参加したり、一流と言われる財界人にお会いしたり、社外の人脈づくりに勤しみました。仕事は自分で工夫してゼロから生み出すもの、これはリクルートイズムの根幹であり、私の仕事観でもあります。その重要性を、リクルート事件は実地で学ぶ機会を与えてくれたのでした。
事件から2年後、我々ビル事業部は、㈱リクルートビルマネジメント(RBM)として再スタート、賃貸ビルの経営・運営管理事業を強化することになりました。1991年東京へ異動後、私は同期680名中最速で管理職に昇格するなど、着実に不動産事業のキャリアを築いていきました。しかしバブル崩壊で時代の転換期を迎えます。日本新党旋風など政局混乱の時、私は東京一極集中への疑問が高まり、生涯のテーマとなる「地域活性化」に出会ったのです。「地方から日本を変える」という松下政経塾のキャッチフレーズに共感し、試験も受けました。結果不合格ではありましたが、地域活性化の仕事に関わりたいという意識を強く持つようになりました。その後社内新規事業で「地域活性事業部設立の情報を耳にし、その創設メンバーに加わりました。
最初の案件は、人口3千人の熊本県水上村の活性化プロジェクト。冒頭の会議でいきなり「東京発のコンサルはいらんばい!」と強烈な先制パンチを受けましたが、3年間で100日以上も水上村に通い詰めリクルートの徹底した現場主義を貫いて、体験型観光プログラム「水の上の学校(豊かな自然や環境を都会人に体験してもらう)」を成果として完成させました。地域の方々と一体となって方向性を探ったプロセスが、高い評価を頂けたことはとても嬉しく、何よりも自分たちの大きな成長に繋がりました。
かなりの手応えを感じていたリクルートの地域活性事業部でしたが、5年で終わりを迎えます。「期待する利益が出ていない」と、無情にも廃部を決定。「ここで止めたら地域の信頼を無くす」私は徹底的に抵抗。そして私が責任者として担当していた九州地区だけは、好業績であったため、なんとか1年間の事業継続が許されましたが、結果、事業停止となりました。
●起業のキッカケ、起業決断の瞬間―
起死回生の新規事業提案も縛りが多く…起業を決断!!
「イデア理念」と「起業や地域の価値創出」
2004年、旅行情報「じゃらん」事業における九州観光振興プロデューサーに就任し、「観光会議きゅうしゅう」を創刊し、九州観光振興を情報で支援しました。しかし、現場で地域活性化を実践するには物足りません。その思いは募り、起死回生、社内お新規事業提案制度へ応募したのです。旅館やホテルの再生支援と地域活性事業を担う新会社を設立することを提案しました。新会社にリクルートが一部出資し、OB人材の力を借りて事業を進めるという枠組みで、役員プレゼンでも大枠承認を得ました。とことが直属上司の猛反発から、かなりの制限が加えられてしまったのです。しまいには会社配下の子会社、代理店のような形でしか実現できない処にまで追い込まれました。制度を活用するか、独立するか、正直迷っていました。
そんな折「ローカルを豊にする日本一のデザイナー」として尊敬する高知県の梅原真氏に相談した処、「ピン(一人)で立て、ピンで立った井手さんなら応援するよ」と。ガツンと殴られたような気がしました。そして決め手となったのは妻の「いいんじゃないの。自分でやれるなら、やっていいんじゃないの」という言葉でした。これで踏ん切りがついたのです。小学生の頃、父が勤めていた旅館を辞めて酒屋を始めた時も、母を始め家族皆で支えたことを思い出しました。
2005年に19年勤めたリクルートを退職。九州を本拠に地域活性化事業の会社を起業すると決めたものの、リクルートの看板なしで果たして上手くいくのか不安もありました。そこで㈱志縁塾代表で元吉本興業伝説のマネージャー大谷由里子さんに相談した処「いでっち、会社を立ち上げる時が、あんたの一番旬の時や。何人位の人が応援してくれるか、新会社設立のパーティを自作自演でやりなはれ」と叱咤激励を受けました。そこで人を集められなければ、独立しても上手くいくはずがないということ、裸一貫のスタ-トなので厚かましくも地域経済のリーダーを一人一人お訪ねし、設立パーティ発起人をお願いしました。
忘れもしない’06年1月新会社を祝うパーティには、180名もの皆さまにご参加頂き、本当に有難い数々のご祝辞やご支援をいただきました。また会場で仕事を発注してくださった方もおられ、涙が出るほど嬉しかったことを今でも覚えています。そして信頼を裏切らない仕事をすること、人と人の信頼関係を築くことこそ、仕事の基盤であると改めて確信しました。さらに実家を継いだ兄までも会場に駆け付け、そっと手紙を渡してくたのです。「財を残すは下、事業を残すは中、そして感動を残すは最上なり」最高の贈り物でした。
社名を「イデアパートナーズ」に決めたのは、「井手」の名前から付けたとよく勘違いされますが、実は古代ギリシャの哲学者プラトンが説いた「idea(イデア)」理念を実現するパートナーでありたい、という想いを込めたネーミングなのです。我が社の理念は「企業や地域の価値創出」。地元の人たちは自分たちの地域の魅力に気付いていないことが多く、当たり前すぎて経済活動に変換する視点や仕組みづくりが判らないことが多い。その課題解決には「よそ者」の良きパートナーの視点や実践経験に根ざしたノウハウ提案が欠かせないと、多くのクライアント様から支持を頂いております。
また創業時に共同経営者として、先にリクルートを退職していた東耕一郎さんとジョインできたことは、我が社の発展の基礎となっていると確信しています。このことは小規模でも会社は個人のものではないことを明確にするためでもあり、社員も同じ志を共に出来るメンバーが集まってくれました。
●起業後のエピソード―
「地域活性化伝道師」として九州100ケ所以上に携る。
「バルウォーク福岡」「ジビエ料理直営店」実績次々と‼
長崎県波佐見町は、400年の歴史がある波佐見焼の陶磁器産業の町ですが、2000年代前半には町内至る所に製陶所跡や空き地がありました。その一つが西の原地区の2千坪の製陶所跡。ここをどうするか。波佐見アート・デザイン村の構想を練りました。古い佇まいをそのまま生かし、陶芸やアート、食をカタチにしたい若者を誘致するというもの。これを地元の窯業の商社である西海陶器社長の児玉盛介さんに提案しました。児玉さんには任せる器量があり、精鋭の陶芸家や。カフェレストランをやりたい、ギャラリーを営みたい、コーヒー豆ショップをやりたいという若者を見つけては、「まぁやってみろ」と背中を押しました。若者たちはそれぞれ建物をリノベーションし、開業していった。西の原地区は、活気がよみがえり、若い女性が訪れる拠点となりました。また、地元の棚田米やみそ、野菜にこだわったメニューを地元の女性たちと考案し「陶農レストラン清旬の郷」をオープンさせました。温泉センター復活に向け、町民から資金を募り、数千万円を集めて、「はさみ温泉湯治楼」をオープン、美肌の湯として多くのお客様が訪れるようになりました。こうして波佐見町の観光客数は’16年に100万人と、この10年で倍増しました。お金からではなく、人材の誘致や動機づけから「新しいコトや価値」が生まれ、民間主導の地域づくりのモデルができました。
’07年内閣府の「地域活性化伝道師」に任命され、水上村や荒尾市、南小国町など、九州を中心に100ケ所以上の地域にかかわって来ました。原点は豊かな自然と暖かい人々に恵まれた自らの生い立ちと、故郷への想いに他なりません。
九州各地の地域活性化を支援するにつれて、自らの着地型観光開発商品を作って集客や賑わいを創出したいと思うようになりました。そのための組織として2010年にNPO法人イデア九州・アジアを設立。取組みの第一弾に「バルウォーク福岡」を企画、5枚綴りのチケットを3,500円で販売し、参加する飲食店数十店舗から5店舗をハシゴする飲み歩きイベントです。この原型は’08年に函館市が開催したイベントで、主催者から福岡開催の承認を得て実施。その後13回開催した現在は、飲食店100店舗、参加者5千人、2万5千食を提供する国内最大級のイベントに成長しています。
同時期に西日本鉄道と共同で路線バスを使った新しい観光開発にも取り組みました。「博多屋台をお得にめぐるツアー」「福岡夜景をオープントップバスで楽しむ」…など体験プログラムを選べるチケットと1日フリー乗車券をセットにした「福岡体験バスチケット」は現在年間1万人以上が利用するヒット商品となっています。
また創業時から温めていた飲食店を直接手掛ける構想を、’13年に九州の食材を美味しくいただく地産地消の飲食店を開業するプロジェクトとしてスタートさせました。飲食店マーケットリサーチの末、九州各地でも問題になっている害獣を、美味しい料理として消費していくことで地域活性化につなげたいという想いから「ジビエ料理」に絞り、’14年11月「情熱の千鳥足カルネ(=スペイン語で『肉』)」を西中洲の一等地にオープン。大分県日田産のシカ、鹿児島霧島産のキジ、天草産のイノシシなどジビエを串焼きやグリル、パスタ、メンチカツなど多彩なメニューでリーズナブルに提供しています。高タンパク低カロリーのジビエは、昨今福岡にもブームが到来し、おかげさまで上々の評判を頂いております。
●今後の夢、目標‼
「地域から日本を変える」人生を掛けて取り組みます‼
「田園回帰1%戦略」
現取締役の東耕一郎さんと2人で始めた会社は、2015年に10周年を迎えました。この間多様な人材を仲間に迎え、社員は総勢10名となりました。社内では全て「〇〇さん」で呼び合い、毎週の会議では業務報告の前に自分の出来事を発表します。営業マンの目標達成には報奨金を出し、全社の目標が達成できたら宴会をし、誕生日を祝い、報奨旅行に行く…、泥臭いと思われそうですが、社員との一体感を大切にするイデア流の不変の社風です。また入社後地域活性やマーケティングのノウハウを学び、独立を志願する社員もでてきました。実力がついたと思う人材になれば、イデアを卒業していくものとして、送り出します。既に2名が起業しました。
また忘れてならないのは、共に様々なプロジェクトで汗を流して下さった多くの業務パートナーの存在です。社内の組織がコンパクトに維持できるのも、その都度ベストでプロフェッショナルな外部パートナーとコラボできたお陰です。先のイデア卒業生も、現在は重要な外部パートナーとして活躍してもらっています。
現代は、東京圏への一極集中が加速し、地方は人口減少、少子高齢化に歯止めがかかりません。30年後には日本の総人口は1億人を下回り、5人に2人が65歳以上になるといいます。その地方再生のカギに「田園回帰1%戦略(藤山浩さん著)」があります。中山間地域が、毎年1%の人と仕事を取り戻していけば、人口を維持できるというものです。私は「1%の人が定住するのに必要な1%の所得を上げる処方箋を地域に吹き込んでいきたい」と考えています。自然と共生しながら、地元住民の力で地域資源を生業に変換していく。そうすれば、地方は東京圏から人を取り戻し、海外からも適正な移民を受け入れ、所得を取り戻し、誰もが生き生きと暮らせる魅力的な地域になるハズです。
今後も「地域から日本を変える!」を自身のミッションとして、世代や目先の利益を超えて「For You(人のための志)」の精神を持った人材を育成してゆく所存です。今後ともよろしくお願いいたします。
※「平成28年熊本地震」「平成29年7月九州北部豪雨」2度の大きな天災に、九州地区地域活性化を営む我が社では全社を挙げて積極的支援に取り組みました。特に私を含む社員の故郷を襲った熊本地震は、南阿蘇村被災当事者として今でも継続的に様々な支援活動を続けております。物資供給や炊き出しなどの活動に、多くのご寄附など後方支援頂いた皆さまにはこの場を借りて改めて御礼申し上げます。
長い文章をお読み頂き誠に有難うございました。
▼井手修身さんの座右の銘
『自ら機会を創りだし、機会によって自らを変えよ』
リクルートの社訓(今は違います)であり、今の弊社の社訓でもあります。 この考え方を、自分の心のエンジンにすると、人はいつまでも成長し続けられます。 そこに、「For You(人のための志)」の精神が入れば、自他ともにハッピーな人生になります。
〇イデアパートナーズ㈱公式サイト
http://www.idea-p.co.jp/
〇NPO法人イデア九州・アジア
http://npoidea.com/
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