自身の体調不良や外反母趾をセルフケアで克服!! 足づくりで未来を創る革命家。
1969年長崎市生まれ。12歳で「外反母趾」と診断され、頭痛、肩こり…など数々の体調不良と闘いながら過ごした10代、20代。高校卒業後、看護助手、税理士事務所、食品問屋などの仕事を経験。2000年結婚&上京を機に「鍼灸院」「アロマテラピー」「リフレクソロジー」など自身の体質改善と「足とからだの研究」に10年以上取り組む。2013年外反母趾やすべての不調の改善に成功し「アシタスタイル®メソッド」が誕生。小平市に「なごみ庵」をOPENすると、足の悩みで長年苦しむ多くの女性が全国から来院し行列に。2015年新宿御苑に「ASHITASTYLE®(アシタスタイル)」を移転。2016年法人設立。成果を出す独自メソッドは、全国・海外からも注目を集め、さらにパワーアップ進化中です。
●幼少~高校時代―
アクティブ派の自分に「外反母趾」の診断、直りません…と。
書道、美術で活躍するが、良い子を演じてストレスも溜まる?!
1969年長崎市生まれ。三菱造船所のドックがある町で、世界的に有名な豪華客船が次々に作られる様子を、山の上から見ながら育ちました。長崎はどこもかしこも坂だらけ、大人になった今でも、自分の足で歩くことに抵抗がないのは、昔から坂道や階段が当たり前の生活だったからかもしれません。大工で棟梁、柔道の師範であった父と、専業主婦の母、絵にかいたような九州の亭主関白夫婦。私は、兄・妹・弟・弟の五人兄弟の長女として生まれましたが、冬でも半ズボン姿で男の子顔負けで遊んでいました(笑。
父は誰に接するときも裏表がない、竹を割ったような性格の人です。声が大きくて、怖かった印象はありますが、あぐらをかいた父の膝の中にすっぽり収まるのが大好きでした。父は3歳の時に長崎で被爆。B29空爆や原爆投下当時の話をよく聞かせてくれました。母は満州疎開組で、引上げ後の貧しくて苦しい生活をよく話してくれました。母は料理、掃除・洗濯なんでも得意で、きれい好き、子どもたちが出かけている間に、しょっちゅう家の中を模様替えしていて、驚かされました。「お父さんは偉いね。神様の上に立つのを許されるお仕事は大工さんだけよ。お父さんが建てたお家はね、強くて立派で台風が来ても倒れんとって。お父さんすごいね!」これは母の口癖で、「ありがとう」と「ごめんなさい」、「いつも笑顔でいること」「挨拶をすること」「お礼を言うこと」「人に親切にすること」…など人として大切なことを教えてくれたのは、両親の、日々の行動だったと思います。
父も母も、字が綺麗でした。私も4歳から字を書き始め、5歳で簡単な漢字が書けるようになって、もっと両親に褒められたくて、書道を始めたのだと思います。5歳から結婚するまでずっと書道教室に通っていました。小学、中学、高校と、たくさんの賞をいただき賞状やトロフィーもいただきました。
小学校では縄跳びが得意で、ムササビ、ハヤブサ、後ろ二重跳びなど、一日中ずっと跳んでいました(笑。高学年ではソフトボールをしていて身体は小さかったけれどキャッチャーでした。好きな科目は国語で、読みとり、書きとり、漢字、作文などが得意でした。
私の体調不良が始まったのは10歳の頃からです。初めは「肩こり」と「便秘」。11歳になると段々足が痛むようになり「お母さん、足が痛い」と訴え、隣町のかかりつけの外科で、レントゲンを撮ったら足の骨が曲がっているのが分かりました。先生は「お嬢さんは外反母趾です。雅恵ちゃん、見て、これわかる?」と分度器を取り出してきて、レントゲンの上に赤い線を引きました。「ここの角度が15度をこえたら、外反母趾っていうの」「ほら、お母さんの足のゆびも、曲がってるでしょう?お母さんから生まれてるからね。治らないかもしれない。」…、その時の記憶はとても鮮明です。外反母趾と医師が診断を下す基準角度が「15度以上」であることや、母が外反母趾であることなど、この時初めて知りました。
中学校は山の上にありました。隣町まで歩いて1時間くらい、小さな学校だったため部活もさほど多くはなく、当時楽しいなと思ったバスケ部に、なんとなく入りました。身体も小さかったし、欲もなく、適度に身体を動かせていられれば満足でした。美術の授業が好きで、デッサン、模写、デザイン、塗り絵など一通り挑戦しました。
高校は市内の進学校・県立長崎西高等学校へ。中学の美術の先生が、高校の進学先が決まった時に「うちの息子があなたが行く高校の美術部の部長をしているから、ぜひ美術部に‼」というので入部。父が若い頃に趣味で油絵を描いていたらしく、油絵を描くための道具一式がすでに揃っていたこともあり、私が油絵を描くと言ったら、父は喜んで道具を譲ってくれました。ゆるーく、美術部でデッサンしたり、油絵を楽しんでいました。毎年運動会の時に、全校を4色に色分けして、それぞれのチームカラーの大きな幕(3メートル四方)を、美術部で描くのですが、その幕を描くのがすごく楽しかった思い出があります。フレームで分けて、拡大しながら転写して行く作業。運動会が来ると毎日朝も昼休みも放課後も、部室へ通いつめました。今でも強く印象に残っているのは、有名なナポレオンが馬にまたがっている絵を描いた時です。
高2の時、剣道7段の体育の先生(私の一番苦手なタイプ)が担任になりました。生活指導の担当でもありとにかく厳しくて厳しくて…。「これが1年続くかと思うと…」そんなショックから学校に行けなくなりました。今思うと、あれは間違いなく過度なストレスからくる自律神経失調症だったと思います。朝起きると、胸が苦かったり、息ができなくなったり、お腹が痛くなったり、母が心配して、いろいろな病院へ行きましたが結局原因は分からず…。ところが再び、学校へ行けるようになった理由がおかしくて。友達から「クラス写真を撮るよ」と連絡があり、休んだ人が右上枠に載せられる写真が嫌だったから…(笑、その後は何事もなかったかのように、フツーに卒業まで通学しました。
●大学時代、起業のキッカケー
転職を繰り返し、様々な社会経験が後々生きることに…。
結婚を機に上京、人生の大きな転換期で出直しへ‼
高3。やりたいことが見つからないままの無計画な受験は、福岡の教育大学に特別教科として書道科があるのを見つけ、付け焼き刃で受験しましたが当然見事に不合格。浪人してまで大学に行く意味も見い出せず、卒業後は自動的にフリーターに…。
(総合病院、眼科看護助手)
毎日プラプラしている私を心配した友人のお母さんから、日赤の病院のアルバイトを紹介して頂きました。外来の眼科での看護助手という職業で、医事課からカルテを受け取り、診察で待っている患者さんを順番に案内する仕事です。名前と顔とを記憶するのは得意だったので、患者さんに声掛けて喜ばれたり意外と重宝されましたが2年で離職。
(教材販売会社、営業事務)
次に正社員になろうと事務職を探して、就職しました。外回りで営業さんが取ってきた商品の伝票を起こす営業事務の仕事です。ここで始めて会社実務の仕組みを知りました。その後会社が教育事業から介護・福祉分野へとシフトするなど方針転換した時期で、様々な異動や離職者が相次ぎ、私も上司との意思疎通ができず1年半で離職。
(税理事務所)
伯父の紹介で、税理士事務所へ就職。当初は伝票の入力作業を行なっていましたが、いつの間にか、確定申告書の書き方を理解して、この頃から父の確定申告は私が行なうようになりました。経理の基礎を学んだという訳ではありませんが、ざっくりと課目ぐらいは判断できるので、今の会社経営に非常に役に立っています。社員さんのほとんどが喫煙者で、事務所の壁がヤニで真っ黄色に染まるほどでした。ある時からひどいくしゃみと鼻水が出るようになって、耳鼻科に行ったら「アレルギー性鼻炎と花粉症」を診断され、体調がすぐれなくて一年半で離職。
(食品問屋)
父の紹介筋で食品卸会社に就職。小さな会社なので、営業事務に始まり、仕入れや販売、次々と担当業務が拡がり、主な取引先が、ホテルやレストランでしたので、シェフや仕入れ担当の方々と電話でやり取りすることが主業務に…。社長がグルメ好きな方で、珍しい輸入食材も多く扱っていて、例えばナタデココが流行った時には、いち早く在庫を持っていて「長崎で取り扱っているのがうちだけ…」「冷凍じゃないフレッシュのフォアグラやトリュフを空輸で入れられるルートを確保した…」「コーヒーを生豆で仕入れ、自家焙煎販売する流行の先取り…」のような面白い仕事を渦中で担当。また珍しい食材を扱うたびに、仕入先に問い合わせをして教えてもらった情報を整理して、コックさんへ判りやすく説明したり…、担当しているうちにどんどん食材に詳しくなり、やがて仕入れの交渉ができるようになりました。ある日社長から、営業への異動の内示を受けましたが、「事務で雇われたので営業は自信がありません」と断り、5年も勤めた面白かった職場も離れることに…。
(モスバーガー)
妹の薦めもあって、事務しか能力がないと決めてかかっていた私が、初めてサービス業に就きました。新店舗スタッフとして、モスバーガーでのスタッフ募集があったので、応募したら合格。さらにアルバイトではなく社員としての入社が決まったのです。フランチャイズで、新店舗で、オペレーションやマニュアルが確立している職場は初めての体験で、ましてや社員としてアルバイトさんを教育していく立場にいきなり立たされ、それはそれは試練の連続でした。接客は楽しく、仕込みも楽しく、祭りの日などはバンバン売り上げを伸ばしていく営業も楽しく仕事していましたが、教育する側としてのポジションは、なにせ全くやったことがなくて本当に大変でした。
しかし自分が楽しい反面、未熟なアルバイトさんに対して、ストレスや圧力をかけていたようです。私が未熟で出来ないことを、アルバイトさんのせいにしたり、責任をすり替えていたんですね。怒鳴ったり、自分の気分で仕事をする最悪の上司でした。辞める時に店長が教えてくれたことがあって、私の機嫌が良いかどうかをアルバイトさんは、店長に尋ねていたらしいです。ひどい働き方をしていました。自分に対しても、他の人に対しても。良くなりたい気持ちはあるのに、心と身体がつながらない、正直に「できない」「わからない」「助けて」が言えない自分が歯がゆかったです。プライドが邪魔をしていたのでしょう。
(2000年10月結婚、東京へ)
主人との出会いは、まるで、暗闇の中に差し込んだ一筋の光のようでした。自分を客観視できるようになり、これまで多くの人を傷つけてきたのだと思い知りました。人生をもう一度やり直したいと思いました。
主人とは、そのために出会えたのだと思います。お付き合いをしている時も、「そういういい方しなくても・・」と言葉がきついことをたびたび指摘されていて、自分ではどうしようもなくて、本音を伝えたいときには手紙を書いて渡していました。純粋だったはずの自分は「産まれて間もなく養女に出されるかもしれない経験から素直を無くしていきました。「親に捨てられたくない想い」から、人の期待に応えることに注力し、自分の気持ちを押し殺しました。自分を保つために必死で築いた鎧によって、いつの間にか、相手を思いやる気持ちさえも失っていました。プライドばかりが高い、傲慢で、高飛車な人間になっていました。過去のひどい私を知る人が、誰もいない東京で、結婚を機にやり直すことを決めたのです。
花小金井は2000年から今日までずっと住んでいます。新しい暮らしが始まると、昔の「生きづらさ」を感じていた自分に、ここで決別をしようと思い、これまでの選択を、逆転させていきました。「判断を誤り、言葉を間違い、小さな自分の世界の中だけでの正しさを主張するあまりに、強く出てくる正義感を振りかざすのを止めたかった…。他人を傷つけ、自分を傷つけるのを止めたかった…。」
●起業決断の瞬間―
体調不良改善の転機は、鍼灸院の院長先生との出会い。
今までの学びが「トータルフットケア」に繋がり開眼‼
独身時代から続く体調不良は、新しい生活環境への変化でさらに悪化。二キビ、腰痛、肩こり、冷え、むくみ、花粉症…などなど常に調子悪い状態が続く…、そして体調不良を改善すべく、ヨガ、断食、食事の改善、ホメオパシー…などなど手当たり次第に様々な健康法に取り組みました。
東京には友人も居ませんでしたので、アルバイトを始めました。話題のお店「シュークリームのビアードパパ」、主な仕事はカスタードクリームを作る卵を大きなボウルで泡立て器で手で撹拌すること。肩こりがひどく駅前のクイックマッサージに駆け込み、その反動で翌日揉み返しが…。次第に朝起き上がれないほどにツラくなり、マネージャーに相談すると「鍼がいいよ」と勧められました。そして通勤途中に「はり・きゅう」の看板を見かけていたことを思い出し、治療院の扉を叩きました。
(近所の鍼灸院との出会い)
初めての鍼は、これまでに感じた事がない、身体の軽さを得られました。穏やかな笑顔で微笑む先生、当然肩に鍼を打つのかと思いきや、先ず、足の方から…。「先生、助けてくださってありがとうございます」と言うと、院長先生は「井手口さんの身体の回復力が高いからですよ」と言われ、「病気は医者が治すのではないでしょう?お薬が治すのではないでしょう?」「ちょっとしたキズは、放っておいても治っちゃうでしょ?」と教えてくださいました。「そうか!治すのは、治療する先生じゃなくて、私のカラダ!」、「自己治癒力」を、身体で捉え、自ら感じた瞬間でした。その後も定期的に通いながら院長先生との会話も増え「お手伝いしてくれる人を探しているのだけど、お知り合いにアルバイトできる人、ご存じないですか?」、シュークリーム屋さんの仕事に限界を感じていた私は、院長先生のところで、アルバイトをすることに決めたのです。
(鍼灸院でのアルバイト)
「苦悩や痛みを取り除く仕事」「日々、他人から感謝される仕事」の素晴らしさを感じながら過ごしていました。
それも、決して先生ではなく患者さんが自分で行っていることを目の当たりにしました。ある日先生から「施術中に患者さんがリラックスできるように、足裏を井手口さんが手や指で押してみてください」と依頼され、見よう見まねでやってみました。すると患者さんから「気持ちが良かったです、ありがとう」と声をかけられるようになり、それはそれはとても嬉しかったのです。「ひどい生き方をして、たくさんの人を傷つけてきた私が、他人様のお役にたてている」って。鍼灸院では、赤ちゃんを望む「未妊」の女性や、ご夫婦の治療をなさっていて、私と同じ世代の方も多く訪れました。リラックスできるようにと、院長先生がベッドの横にアロマオイルを置いたりしていたので、アロマの勉強をしようと思い、アルバイトがない日に、アロマテラピーの学校へ通い始めました。
この頃に治療院へ通ってきてくださって、出会った方は、今でも交流があります。その中のお一人から、「足だけを揉んだりほぐしたりして身体を整えるリフレクソロジーというの、知ってる?すごい人がいるから」と紹介してくさったのが、のちに私のリフレクソロジーの師匠となる方です。師匠は独自で勉強したり、タイへ学びにいったりして、オリジナルの施術をなさっていました。定期的に整えてもらいに通ううち、「自分の手技をそっくり体現できるお弟子さんを育てたい」という意向で、私に学ばないかと声をかけられました。11歳で足が痛くなって医師から外反母趾を診断され、どんな靴もいたくて、いつも足のことが気になる。「足」を整えることに対して無意識下で重きを置いていたのでしょう。足について学んでいくことには抵抗はありませんでした。当時、主人が会社の仕事に忙殺されていて、もともと自己管理できるはずの人なのに常に疲労困憊でしたから、「寝ている間に、彼の足を触れたら、睡眠を妨げることもなくていいかもしれない」と、リフレクソロジーというのを学びに行きたいことを伝え、勉強を始めました。
(リフレクソロジー、足についての勉強)
学校へ行きスクールで学ぶのではなく、個人でやっていた師匠のもとへ、弟子入りするような形での学びの日々。それは、スキルだけではなく、私の生き方、在り方そのものを問い続ける人生の勉強でした。忙しい親に対して、心配をかけまいと、何でも一人でできるしっかり者のお姉ちゃんを演じていた自分。人とつるむのが嫌いな自分。相談したり、助け合ったり、協力し合ったりすることを、学んでこなかった一匹狼の自分。師匠の下で学んだことは「無知の知」でした。知っても知っても、学んでも学んでも、まだまだ…。
その「気づき」は、果てしなく大きかった。気付いたときに、顔から火が出るほど、恥ずかしかった。穴があったら入ったまま、もう一生穴から出なくてもいい。こんな私で、今まで生きてきて、ごめんなさい。三ヶ月ほど、毎日泣いて暮らしました。
師匠の下で2年学び、その後、たくさんの人の足に触れ、たくさんの足を知るよう、友人にお願いして、足を貸していただき、リフレクソロジーを練習していました。そして2011年からは「ドイツ式フットケア・フスフレーゲ」の学校へ。巻き爪の矯正、角質を削ったり、魚の目を除去したりするフットケアの先進国であるドイツの技術を習得。いろいろな足を見る中で、タコや魚の目、かかとのガサガサをたくさん目にし、必要性を感じ学び続けました。さらに2012年からは「ゾーンセラピー」の学校へ。ここでは「解剖生理」や「身体と心と魂の関係性」を学びました。
(足のゆびを使って歩くこと)
この頃には自律神経の乱れは、少しずつ改善されてました。次に「足と靴と歩行をトータルで学ぶ自然療法フットケア」の学校へ。足だけケアしても変わらない。靴を履いて歩くのだから、足と靴とは同時にケアしなくては。歩行の重要性を再認識し、そのヒントが見つけられた学校でした。それでも、毎日歩いていましたが、私の足先の冷えの自覚症状は改善せず、どうしたものかと思いあぐねていたところ、足のゆびについて書いている本を目にしました。ゆびを使って歩けば、冷えは解決できるかもしれないと思い、歩くときにどんなふうにしたら、足のゆびを使って歩けるかを試行錯誤していきました。「そうか!動物は、かかとを着地させていない。二足歩行の人間だけがかかとを下したんだ!」と気が付いてからは、これまで学んできた、足のこと、反射区療法のこと、靴のこと、歩き方のこと、バラバラだった点と点が次々につながっていきました。
(自分の足で歩く。究極のセルフケア)
私が、足や歩くことにこだわるのは、自分の不健康体験だけでなく、歩けない身体で産まれた弟の存在があります。坂の街・長崎で、私たち家族の生活は一変したからです。
(「なごみ庵」で独立開業)
そして2013年に開業届けを税務署に提出。自宅そばの古いマンションの一室に、サロンを構えました。この物件を借りるときは、何かに導かれるようでした。出たばかりの物件を、たまたまみつけて、即契約。知り合いの方も入居していて、いろいろスムーズにとんとん拍子で決まっていきました。ありえない金額の家賃。望みどおりのスペース。この時の屋号は「なごみ庵」。自宅で、リフレクソロジーをしたり、角質を削ったりしていた頃「雅恵さんと話すとなごむ」と言っていただいた方の言葉が嬉しくて、名づけました。
(施術練習の連続…)
起業をしようと考えて起業したわけではありませんでした。身体のことを探求しているうちに、だんだん情報が増えてきて、友人にシェアするようになり、自然な流れの中で起業という働き方に辿り着いたのです。はじめに学んだリフレクソロジーの施術の練習を、いろんな足を触りたくて、友人たちに足を借り自主トレーニングをしていました。すると「すごい!気持ちよかったし、足ってこんなにすぐに変化するんだね。!開業したら教えてね~」と言われるように…。
学び始めたのが2003年からで、そこから、いろいろ学んでは、要らないものを捨て、必要なものを学び、取り入れてはブラッシュアップして、の繰り返しです。この作業は現在もずっと続いています。
●起業後のエピソード―
アシタスタイルメソッドの自己体験で体調改善、ダイエットにも成功!!
新宿御苑に新サロンOPEN‼オリジナルブランド開発も目指す‼
2013年5月から6月中旬まで、ひと月半をかけて、私の体調不良を一つの方法で解決すべく自分の身体を使って、学びの集大成を詰め込み、実験しました。その結果は、45日間で、ズボンのサイズが2サイズダウン。冷えがたちまちに解消。肩こり、腰痛、頭痛、生理痛、便秘、不調という不調が、全部なくなりました。気が付くと、今までフスフレーゲマシーンを使って削っていた足の裏にあったタコが消えていました。お風呂でいつも軽石で削っていたかかとのガサガサが、いつの間にか、なくなりました。魚の目が、ポロリと取れました。小さくなっていた小ゆびの爪が大きくなってきました。ねじれていた親ゆびが正面を向いてきました。「あれ?!外反母趾が良くなってきている!」
下半身が太くて、大きなお尻と太ももを何とかしたくて、下半身を痩せさせたくて、埋もれているアキレス腱をくっきり出したくて、独身の頃から三か所のエステにウン百万もかけて、通いましたが、結局は痩せませんでした。
ジムに通いに走ったり…、何をやっても痩せなかった下半身が、たったの45日間で、誰にも頼らず、努力もせずに、日常に普段どおり歩くだけで、最大のコンプレックスだった下半身痩せに成功したのです。「足と、靴と、歩行を、同時にケアする」オリジナルメソッド誕生の瞬間でした。
するとお客さまがお客さまをご紹介くださり、行列ができました。スケジュール帳がお客さまの予約でいっぱいになる中、趣味の域ではなく、このメソッドを「売る」ということにシフトチェンジしました。(しかしこのままでは、忙しすぎて、私が壊れてしまう・・)どうにかしたくて、マネジメントの必要性を感じ、コンサルタントさんに相談したり、マネジメントの勉強をしました。自分の強みを知り、強みに特化して、ブランディングをしていきました。
そして2014年9月に「アシタスタイル」誕生。足は、なんとなく汚いイメージだったり、多くの人が人知れず悩みを抱えている器官。人に見せたくないところ。あまりキレイなイメージをもたれにくい「フットケア」のイメージも一新したかった。健康は何かを諦める必要があったり、美を求めると、我慢を強いられるけど、そんなのは、おかしい。美と健康は、同時に手に入れることができると伝えたい。カッコイイ。スタイリッシュ。憧れ。佇まいや立ち振る舞いや、発言も行動も、私が示していこうと考えました。
全国から、海外からも、わざわざ花小金井へ来てくださるお客様、1時間半かけて、花小金井まで通ってくださるスタッフ。アクセスがいいところへ引っ越しをしようと考えました。そして2015年6月に、新宿御苑前に移転。
(念願の事務所を御苑にOPEN)
物件は、人と同じでご縁だなぁと感じました。今の物件を見つけたときは、鳥肌が立ちました。降って湧いてきたような物件だったから。「広~い窓から望む景色は、空の青が半分で、木々の緑が半分で。」そんな私のビジョン、そのままの物件が目の前に現れた。申し込んだときにはすでに予約物件で、キャンセルにはなりにくいだろうといわれたけれど、「絶対にここに入居しよう!」とみんなで念を送りました(笑)キャンセルが出て、審査という審査もほとんどなく、簡単に契約できました。あの時の流れは今でも不思議な感覚で、夢の中での出来事のように思えます。当初の予算よりオーバーする家賃でしたが、今後、大きな目的に向かってアシタスタイルを羽ばたかせるには絶好のロケーション。スタッフも、とても気に入っており、モチベーション維持にも役立っています。
(アシタスタイルのロゴデザイン)
フットケアサロンは、会員制の美容室のようにしたかったのでイタリアンモダンのイメージでインテリアを統一していきました。アシタスタイルのロゴ制作をお願いしたデザイナーさんが、「スターバックスのラテを片手に道行キャリアウーマンのイメージで作成してくださったロゴを、白黒と、赤黒のものを上げてくださいました。それがビジュアルプロモーションをしていた私に、ちょうどヒットして、ロゴに合わせてインテリアも統一していき、赤と黒と、シルバーで、「雅恵さんには、キラキラが欠かせないから」とインテリアの相談に乗ってくれていた美に妥協を許さないセンスの優れた友人にアドバイスをもらいながら整えていきました。
(スクールの開校)
アシタスタイルの世界を広めていくためには人材育成が欠かせません。いろいろ学んできた中で、足についての「教育」の位置づけがなされていないのだなあと感じました。特に靴に関しては、ここへ至るまでに情報を得ることがとても難しかった。靴づくりの技術の部分でもありますから、表に出てこないマル秘情報であったりもします。現在のアシタスタイルアカデミーが、もっと当たり前に身近な教育、習慣、として根付くことを目指していきたいです。着物文化、はだし文化の中では、当たり前に身近にあった、思いやりや、気遣い、人の優しさなどにも、通じることだなあと感じています。
(オリジナルブランド「Femmush(フェムーシュ)」の開発)
現在取り扱っているインソールも、スニーカーも、自社製品ではありません。私が開発したのではなく、それぞれに、開発者が別に存在します。模索する中で、形のないメソッドを具現化してくれるカリスマたちとの出会いで、アシタスタイルメソッドは、リアルに表現できるように形を変えることができました。出会うべくして出会い、繋がったとても有難い出会いです。アシタスタイルに感動してくださった方が、「雅恵さんと一緒に靴をつくりたい」と14枚もの手紙をくださり、二年前から構想。この度、共同プロジェクトでオリジナルブランド「Femmush(フェムーシュ)」を立ち上げました。
今後もこのようなご縁はたくさん出てくると思うのですが、アシタスタイルはあくまでも、良質な情報提供をする教育機関のポジションをキープし続けます。過去、多くの荷物を一人で背負い、抱え込み、身動きが取れず、誰にも助けてと言えなかった、死にそうになってた私です。いつでも身軽に居たいのです。多くの人に、知恵を貸していただき、お力添えをいただきながら、囲い込むのではなくそれぞれが尊重し合える助け合える形で、共に未来を築いていきたいです。
(写真をクリックすると拡大します)
●今後の夢、目標‼
アメーバのように小さな拠点が繋がりながら拡がる成長を。
「すべての女性を美しく、そして地球を平和に‼」
会社の目標はもちろん成長と発展です。しかし、それは、社員を多く採用し、自社を大きくし、自社ビルを建てる、といった、上に伸ばしていく成長ではなく、アシタスタイルに出会い、感動してくださった方が、情報と技術を身につけ、それぞれの自分のサイズ感で、各々の場所に拠点を構え、小さい拠点が、アメーバのようにお互いの繋がりを保ちつつ、たくさん増えていくイメージです。横につながりを広げていって11歳で感じた私の「足のことを相談できる専門のところがあればいいのに」を叶えていこうと思っています。
(これから挑戦してみたいこと)
〇靴にちゃんとお金をかける足元が美しい日本人を増やしていきたい。そのために、当たり前に良い構造の靴が売られている世界にすること。そのために、靴を監修する人になりたいです。
〇身体のケアを得意とする方たちのネットワークをつくりたい。
〇「履き心地のいいハイヒール」を誰もが気軽に試せる「Femmush」の店舗を構えたい。
〇素晴らしい人材は主婦の中にいる。働きたくても、社会の環境において、社会貢献できないでいる女性たちが活躍できる場を生み出す仕組みを作りたい
〇老若男女、性別関係なく、人として、個としての魅力を発揮できる労働環境をつくりたい。
〇いじめや差別がない、優しい世界をつくりたい。
〇着物文化、履きもの文化を再燃させたい。アンティーク着物の世界を手入れがしやすい新素材で復刻させて、色鮮やかな世界を復活させたい。
〇美しいものを生み出す力があるアーチスト、芸術家の力になりたい。生活のために才能を埋もれさせたくないのです。
〇障害や病気、老齢、地方都市、など、社会的弱者、情報弱者、と呼ばれる人たちの、雇用環境を変えていきたい。
〇勝ち負けで優劣が決まっていく社会の仕組みを変えたい。
…などなど、やりたいことを挙げればきりがありません。
世の中には、いろいろなコミュニティがありますね。これまでにも、ご招待されたり、自ら選択して様々なグループに参加してきましたが「めびうすのWA」が一番好きです。参加する方に優劣をつけず、尊敬しあい、応援し合う、優しい形。人は本来そうあるべきだと思っていた私のところへ、松延さんが会いに来てくださって、お声掛けくださったこと、心から感謝を申し上げます。ご縁は、そのままだとご縁のままで、互いにご縁を育まなければ育てることはできません。「めびうすのWA」は、ご縁を育むことが、自然な形で出来上がっていく仕組みになっているのだなぁと、感動いたしました。
めびうすの過去の記事を拝見しながら、皆様の輝かしい経歴にビビりながらも、私は私でしかなく。何の特技も取り柄もなかった私が、一つのことを追求し続けたらこんなことができるようになったよと、私の生き方が誰かの勇気になれば幸いです。起業は起業ではなく「やる!」と決めるだけ。起業は決して特別なことではなく、継続の延長上であることを、この度のプロフィールを綴りながら、感じました。
長い文章をお読み頂き有難うございました。
▼井手口雅恵さんの座右の銘 『 Don't think! Feel. 』
ブルース・リーの有名な言葉で、「ごちゃごちゃ考えていないで、感じ取れ!」という意味です。 幼いころからウソのような晴れ女です。必要な時に必要な人が現れ、いつも助けられました。いつも「なんとなくそう感じるから」の直感を大切に生きてきました。頭で考えすぎると、過ちを犯す。人間は、動物です。本能的で生きる、原点です。正解はいつも「心地よさ」の中に存在します。
〇アシタスタイル公式サイト
http://ashitastyle.tokyo/
〇ASHITASTYLEフェイスブックページ
https://www.facebook.com/ashitastyle/
〇井手口雅恵FB個人アカウント
https://www.facebook.com/masae.ideguchi
▼宜しければフェイスブックページに「いいね!」をお願いいたします!!